銀幕のいぶし銀





『シルバー産業新聞』





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開設 1997/10/4
改訂 1997/12/8
移転 1999/4/29

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筆者へのメールはこちら


更新:2007/10/7

『銀幕のいぶし銀』とは?

 高齢者の医療・介護問題を扱う業界紙『シルバー産業新聞』に連載中の映画コラムです。
 「活躍するお年寄りにまつわる映画で、読んで元気づけられる物を」という編集の方からの要望はあるのですが、まあ私のことですから必ずしもそれに沿っているとは限りません。(殆どずれている?)……

 


今までの見出し(新しいものが上に来ています。)



  • 第130回『ミリキタニの猫』(2007/8)

    ……これまでの流転の人生をようやく昇華しきったジミーの表情が、複雑でありながら実に穏やかなのである……

  • 第129回『天然コケッコー』(2007/7)

    ……原作の持ち味である絶妙な空気感を生かしながらこれほど感動的なまでに美しい映画にまとめあげられるとは……

  • 第128回『しゃべれどもしゃべれども』(2007/6)

    ……久しぶりに正統的な日本映画の演出手法を見いだせるのであって、単に出演者の人気に寄りかかるのでない、本当に役者として役を演じきる、という快感がこの映画の信条……

  • 第127回『監督・ばんざい!』(2007/5)

    ……今回は実にあっけらかんと、極めて分かりやすいバカバカしさを伴った絶対主義的コメディを打ち出してきたのが、やはり映画監督としての比類なき才能を感じさせる驚異的作品である……

  • 第126回『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』(2007/4)

    ……この映画で注目すべきは“ボク”のオダギリジョーの入魂の演技である……

  • 第125回『松ヶ根乱射事件』(2007/3)

    ……独特のまったりした人物描写の感じだけでなく、冒頭、雪の中に女がぽつんと倒れている様子などはやはりコーエン兄弟を想起させる……

  • 第124回『ユメ十夜』(2007/2)

    ……『ユメ十夜』一作品の中に、50年分の日本映画史そのものが圧縮されており……

  • 第123回『どろろ』(2007/1)

    ……眠狂四郎よろしくニヒルでクールな人物像に見事に昇華している……

  • 第122回『硫黄島からの手紙』(2006/12)

    ……敗戦の色濃い戦争末期、絶対的に兵力の劣る状況の中で戦わざるを得ない硫黄島防衛戦を、最後まで生きて戦い抜こうとする男たちの姿を通じて、戦争という極限状況の中でしか描き得ない人間の本音の姿……

  • 第121回『麦の穂をゆらす風』(2006/11)

    ……たった2つの冒頭シークエンスだけで、アイルランドの厳しい歴史背景や物語のバックボーンを観客に暴力的に分からしめてしまう演出手腕……

  • 第120回『トンマッコルへようこそ』 (2006/10)

    ……第一作目にしてこのクオリティのものを、さも当たり前のように生み出してしまえるのは今韓国映画以外にはあり得ない……

  • 第119回『LOFT ロフト』 (2006/9)

    ……人間の愛というものこそが恐怖そのものであるという状況は、確かにある種の真実をはらんでいる……

  • 第118回『グエムル 漢江(ハンガン)の怪物』 (2006/8)

    ……現在においてこれほど見事な演出力を持つ監督は、本当に世界中でも数えるほどしかいないのであり、それほどの力を持つ監督をしっかり支える韓国映画界は驚くべき底力を秘めている……

  • 第117回『日本沈没』 (2006/7)

    ……とかく日本映画につきまといがちな、どことなく貧相なイメージから完全に脱却しているだけでなく、今やアメリカ映画にすら見出し得ない本当の映画の贅沢さがここにある……

  • 第116回『間宮兄弟』 (2006/6)

    ……ある誇張された人物世界が圧倒的にリアリティを持ってくるのは森田芳光独特の完全主義のなせる技といえよう。実は森田芳光は台本の台詞も一字一句変えさせない、小津安二郎にも匹敵する程の完全主義者なのだ……

  • 第115回『グッドナイト&グッドラック』 (2006/5)

    ……政治的スキャンダラスな映画に今敢えて取り組み続けるG・クルーニーのスタンスは、まずそれだけで間違いなく称賛に値する……

  • 第114回『ニュー・ワールド』 (2006/4)

    ……この緻密で膨大な話を2時間強の時間に収めるために編集で随分圧縮した印象があるのがこの映画の気になる点……

  • 第113回『ブロークバック・マウンテン』 (2006/3)

    ……堂々たる純愛映画なのであるが、この映画が興味深いのはそんな男たちの禁じられた関係を、意外なほど大らかにかつ淡々と描いているところであろう……

  • 第112回『シリアナ』 (2006/2)

    ……センセーショナルな話題作とは明らかに一線を画した、確固とした意志の力を感じさせる作品であり、同時にエンターテイメントとしての完成度の高さという点からも見応えのある注目作……

  • 第111回『単騎、千里を走る。』 (2006/1)

    ……素人の放つリアリティと健さんの朴訥とした芝居のリアリティが、実は全く対極のものでありながら、その噛みあわなさをも逆に映画に取り込んでしまおうというのが張芸謀の隠れた意図……

  • 第110回『疾走』 (2005/12)

    ……内容的に非常に扱いの難しい物であるからか、ふだん以上に映画にかける意気込みが画面から滲み出している……

  • 第109回『TAKESHIS’』 (2005/11)

    ……今までの北野武の映画にしばしば登場するモチーフを極めて形式的に反復する事で成り立っているこの映画を見るためには、彼のこれまでの作品をある程度知っていないとそもそも楽しみようがない作りになっている。そのような意味でこの映画は観客を選ぶし、この敷居の高さこそが今回の監督の最大の狙いである……

  • 第108回『ロバと王女』 (2005/10)

    ……『ロシュフォールの恋人たち』で念願のジーン・ケリーを出演させた後、ドゥミは遂にアメリカに渡って映画を撮るのだが、その作品『モデルショップ』は今までの作風とは違って内省的な青年の挫折の物語であった……

  • 第107回『NANA-ナナ-』 (2005/9)

    ……この映画はかなり良くできたプログラムピクチャーの系譜に位置づけられるのであり、日本映画の歴史には決して残らないが確実に存在する良い映画の一つ……

  • 第106回『サマータイムマシンブルース』 (2005/8)

    ……純粋にストーリー自体の魅力だけで映画を成立させようという試みは実は相当難易度が高い……

  • 第105回『宇宙戦争』 (2005/7)

    ……スピルバーグの職人的演出に、映画が量産されていた頃の職人監督たちの演出的「技」の系譜を見るようで、この冒頭だけで「映画らしい映画」を見ているという充足感に溢れている……

  • 第104回『チャレンジ・キッズ 未来に架ける子どもたち』 (2005/6)

    ……この『チャレンジ・キッズ』がここまでアメリカで熱狂的に受け入れられたのには、スペル大会というイベントに「アメリカらしさ」「アメリカ映画らしさ」を改めて見出すアメリカ人が多かったということで……

  • 第103回『ミリオンダラー・ベイビー』 (2005/5)

    ……薄っぺらな「感動のストーリー」や「人間の尊厳」などという言葉では到底表現しえないある種の地平、人間存在の良い面悪い面全てひっくるめたあらゆる断面を、ただ無機質的に暴いていく映画の超越した視点……

  • 第102回『エレニの旅』 (2005/4)

    ……この骨太にして繊細な物語の味わいは今までのアンゲロプロスの作品とも微妙に違って、想起される作品を敢えていいきれば黒澤明や成瀬巳喜男……

  • 第101回『いぬのえいが』 (2005/3)

    ……単に犬の可愛さだけではなく、ペットとして犬をかわいがる行為が実は人間の一方的な傲慢なスタンスにすぎないという反省点をよく理解して構成してある……

  • 第100回『THE JUON/呪怨』 (2005/2)

    ……アメリカ映画でありながら普通の日本映画にしか見えない作りになっているのである……

  • 第99回『パッチギ!』 (2005/1)

    ……あくまで物語は高校生たちを中心に、様々な人物が錯綜しながら群像劇として突き進んでいく……

  • 第98回『市川雷蔵祭 艶麗』 (2004/12)

    ……思うように企画が進行しないのでそのまま台本を撮影所にほっぽり出しておいたところ、偶然通りかかった市川雷蔵がその台本を目にとめ、一読していたく気に入り、自分の主演百本目映画に決めてしまった……

  • 第97回『オールド・ボーイ』 (2004/11)

    ……もしこの原作が普通に日本で映画化されていたら、これほど国境を越える面白さが出せたかどうか逆に分からない……

  • 第96回『フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ元米国防長官の告白』 (2004/10)

    ……我々が裁かれないのは単に我々が勝利したからだ、などと傲慢でも何でもなくただ首尾一貫した客観性で語られてしまう……

  • 第95回『華氏911』 (2004/9)

    ……この映画をアメリカ国民が喝采で迎え入れる根本理由は実はその映画の力・八方破れな自由の希求にある……

  • 第94回『スパイダーマン2』(2004/8)

    ……今回も一貫してこだわっているのはまさにこの伝統的ヒーローという点である。現代の映画にありがちな超人的ヒーローと違い、真のヒーローはただ強いだけでなく、普通の人間以上にナイーブな面を持ち、より人間的な悩みを抱えるが故に孤独と戦わねばならない、と言う様式は1930年代のJ・フォード作品などで確立した典型的アメリカ映画のヒーロー像であり……

  • 第93回『69 シクスティナイン』(2004/7)

    ……確かにいま日本映画には世代交代の波が訪れている。……このような周辺状況の中で出現した映画が、例えば「エネルギッシュ」とか「パワーあふれる」あるいは「荒削り」とか「ストレート」というような、「若さ」というイメージにつきまといがちな言葉で表現できるのかというと、それがむしろ逆なのが単純に驚きなのである。……

  • 第92回『子猫をお願い』(2004/6)

    ……この映画が素晴らしいのは、いわゆる「携帯世代」と呼ばれる若者たちのコミュニケーションの姿が圧倒的に生々しいのである。……微妙なことばの隅々に対して鋭敏な感性が反応していく様がここまで生々しくさらけ出された映画はおそらく世界で初めてである……

  • 第91回『世界の中心で、愛をさけぶ』(2004/5)

    ……一歩間違えば単なる陳腐な作品に堕してしまうストーリーを、行定はあらゆる細部を地道に突き詰めることで古典的な意味でのファンタジーへと昇華していく……

  • 第90回『ロスト・イン・トランスレーション』(2004/4)

    ……この映画が描く東京は、ひたすら非人間的に混沌とした街である……この映画は「正しい」日本の姿を客観的に描こうなどと端から考えもせず、むしろ異国の人間が見た日本の都会の風景をありのまま「誠実に」描くことに心血を注いでいるからであり、この映画的誠実さにおいてS・コッポラは断固とした信念を感じさせる監督といえよう……

  • 第89回『きょうのできごと』(2004/3)

    ……行定は小津と真逆のアプローチであって全く似ていない映画である。だが人物を慈しむことだけで映画を成立させられると心底から信じているものだけが到達できる域に、行定は既に入っている……

  • 第88回『ラストサムライ』(2004/2)

    ……アメリカ映画ビジネス界は日本を含むアジア映画市場を新しい形でターゲットにし始めたと言える……トム・クルーズの、プロデューサー側の才覚がまたも奏功した作品であるといえよう……

  • 第87回『みんなのうた』(2004/1)

    ……作品のリアリティを生み出す細部の充実度が素晴らしく、特に、当時大ヒットしたという設定のフォークソングの数々が、この映画の影の主人公といっていい出色の出来栄えだ……

  • 第86回『ほえる犬は噛まない』(2003/12)

    ……一つのエピソードが次々と登場人物のおかしな行動を浮き彫りにしていき、平凡な日常生活があっという間に非日常的な空間へと発展していく。その展開が実にリズム良く繰り出され、何とも味わい深いおかしさの連打には純粋に映画的快感が満ちあふれている……

  • 第85回『座頭市』(2003/11)

    ……ここにこそ、昔のシリーズをどこで割り切るかという冷静な計算と同時に、勝新太郎と昔の座頭市シリーズを汚すことだけは出来ない、という尊敬と畏怖の念を読みとることが出来る……

  • (第81回〜84回は筆者休載・別の方が書いてらっしゃいます)

  • 第80回『シカゴ』(2003/6)

    ……40年代から50年代に隆盛を極めた数々のMGMミュージカルが、クライマックスになると主人公の夢想する大スペクタクル・レビューシーンを配置するというのは、『巴里のアメリカ人』『バンド・ワゴン』などを思い出すだけで明らかなのである……

  • (第77回〜79回は筆者休載・別の方が書いてらっしゃいます)

  • 第76回『ボーリング・フォー・コロンバイン』(2003/2)

    ……アメリカが映画の国というのは、映画産業が発達しているからではなく、日常のコミュニケーションとして映画が有効な役割を果たしているからであり……

  • (第70回〜第75回は筆者休載・別の方が書いてらっしゃいます)

  • 第69回『ハッシュ!』(2002/7)

    ……その意味で『ハッシュ!』は、見掛け上の印象と全く違って、橋口監督の本来持っているオーソドックスな日本映画的良心が如何なく発揮された、極めて日本的・古典的な恋愛映画の系譜に位置づけられる……

  • 第68回『阪妻映画祭』(2002/6)

    ……44年といえば太平洋戦争も大詰めに差し掛かり、軍部から映画製作への圧力は相当のものがあったはずだが、それらの圧力を巧妙に潜り抜けた脚本・演出・演技は素晴らしいの一言で、人間味あふれた阪妻はのびのびと高杉晋作を演じきっている……

  • 第67回『突入せよ!あさま山荘事件』(2002/5)

    ……この『突入せよ!あさま山荘事件』は驚くほど政治的空気を排除しきっている。完全なエンターテイメント、土壇場で大活躍するヒーローの物語にしてしまった……

  • 第66回『ロード オブ ザ リング』(2002/4)

    ……
    観客が真にリアリティを感じるのは、映画で描かれる世界のトータル的な統一感や登場人物に対する感情移入のさせ方など、どちらかというと映像に現れない部分の構築に因るところが大きいのである。そういう意味では、原作の壮大な世界に比類する映画化を果たした監督、P・ジャクソンの力は実は大きい……

  • 第65回『家路』(2002/3)

    ……日常を、あくまで冷静に距離を置いた地点から見つめ続け、物語をまるで紙芝居のように、何の勿体もつけずにポンポンと出していく。これは確かに演出の技の極みであるが、間違っても枯淡の境地などではない……

  • 第64回『恋ごころ』(2002/2)

    ……
    物語的な興味以上に人間としての大らかな魅力に充ち満ちた作品を生み出し続けてきたわけだから、昨年のカンヌでの絶賛はむしろ観客・批評家の方がようやく映画に追いついたのだ、とすら断言していいと思う。それほどJ・リヴェットの映画は魅惑的である……

  • 第63回『助太刀屋助六』(2002/1)

    ……日本映画の黄金時代には普通に見られた映画的「軽み」も、現在実現するのには相当の苦労が必要で、この映画のように伝統的な映画演出の技法を積み重ねて、ここまで正統的に時代劇を構築していける人は、今は非常に限られている……

  • 第62回『かあちゃん』(2001/12)

    ……何といっても岸恵子の存在感が素晴らしい。貧乏暮らしの上、女手一つで子供を養うかあちゃんの役どころに、あえて美貌の、所帯臭さの全くない岸恵子を持ってきたことで、その清貧さや純粋さにリアリティを与えているのである……

  • 第61回『ピストルオペラ』(2001/11)

    ……
    大正浪漫風のモダニズムあふれる抽象的・様式的美学を主体にした大胆な構成は相変わらず健在である。しかし、「今までと同じことをしてもつまらない」と既存の発想を覆し続けた鈴木清順が、今回は……

  • 第60回『忘れられぬ人々』(2001/10)

    ……自分らしく生きている人間は年齢に関係なく魅力的なのであり、しばしば人間らしさを置いてけ堀にしてしまいがちな現代生活の中で、自分を貫いていく生き方を続けること、その美しさを讚えた映画はまた美しい……

  • 第59回『百合祭』(2001/9)

    ……いわゆる「老いらくの恋」というような、老人の性とセックスを真っ正面から扱った映画というのは中々聞いたことがない……

  • 第58回『Red Shadow 赤影』(2001/8)

    ……特撮といってもCGではなく古典的にスタントを多用し、あくまで人間の肉体で見せようとしているのが逆に映像の豊かさを生み出している。そこに重厚な映画美術が加わると、今どきの日本映画では考えられないくらいの「映画的贅沢さ」が出現してしまっているのである……

  • 第57回『クレーヴの奥方』(2001/7)

    ……まさにサイレント時代から映画を作り続けてきた円熟の技術が、この作品でも遺憾なく発揮されていて……

  • 第56回『初恋のきた道』(2001/6)

    ……この映画は、現在では信じがたいくらいに古典的な映画であるといえよう。そしてこの古典性は、例えば現在の日本映画ではまず殆ど成立しない種類のシンプルさと強じんさを兼ね備えたものであり、それ故この映画は万人の心を捕らえることになるのである……

  • 第55回『日本の黒い夏・冤罪』(2001/5)

    ……映画が「作品」と見なされている現在において、テレビや新聞に対抗するメディア的側面を映画の中に見いだしていくというスタンスは極めて貴重であると言える……

  • 第54回『アカシアの道』(2001/4)

    ……まずは、この母子の関係がシビアなのである。アルツハイマーの母親を演じる渡辺美佐子の迫真の演技もさることながら、母親が娘に冷たい仕打ちを仕掛ける一方、ボケはどうしようもなく進んでいくこのアンバランス……

  • 第53回『アンブレイカブル』(2001/3)

    ……ヒーローという存在を真正面から成立させ、ヒーローが真の能力を発揮して悪を倒すという、驚くべき古典的なファンタジーを現代において再構築してしまう物語であり、人間の可能性の両極端を背負っている二人の男の対立は、裏返すと、男のロマンとしかいいようのないものだ。この古典的ファンタジーを支えるのは、その卓抜した演出力なのである。……

  • 第52回『回路』(2001/2)

    ……優れた映画監督は大きく2通りあって、一つは人物を中心に映画世界を膨らませ完成していくタイプ、もう一つは映画世界を完全に構築したところに人物を放り込んでいくタイプである。黒沢清は日本では珍しく後者であり……

  • 第51回『ヤンヤン 夏の思い出』(2001/1)

    ……この映画の中心的主題は、まさにこの「人に率直な思いを告白すること」に集約され、その過程の中で家族は各々、漠然と抱いてきた理想や夢が、現実社会の摩擦の中で歪められ傷ついていくのを体験する。その様子を映画は逐一余さず静謐に描いていくのだが、このあたりの人物描写を例えれば、小津安二郎の映画を微かに思わせる……

  • 第50回『新・仁義なき戦い』(2000/12)

    ……文字通り原点に戻って、そもそも仁義など消えうせているかのような現代において「仁義なき戦い」を描くとするなら何が最もリアルに戦いの場所として成立するのか、今の観客に十分通ずる空間性と心理を生みだすことに腐心している……

  • 第49回『老親』(2000/11)

    ……恐らく原作者や監督は実際に、親の介護の問題と取り組んでいたのであろう、何でもない描写・何でもない台詞の端々に実際に経験しないと分からないような生々しさが垣間見えるのである……

  • 第48回『U-571』(2000/10)

    ……典型的な戦術級ストーリーテリングであり、刻一刻と状況が変化する中、限界に挑戦しながらも辛うじて危機を切り抜けていくドラマ展開は、一時も緊張が途切れることなく、ラストまで一気に見せられる……

  • 第47回『スイート・スイート・ゴースト』(2000/9)

    ……安易な感情移入を徹底的に排する。そしてこのような表現を意識的に繰り返すこの映画の真意はどこにあるのか、観客に容易には掴ませないのである。近年珍しく、気安く観ることを許さない緊張感の溢れる映画であり、ここに監督の大胆な挑戦というか野心的としか言い様のない狙いが見て取れる……

  • 第46回『ミッション・インポッシブル』(2000/8)

    ……最終的に全ての仕掛けが見事にかみ合う爽快さが人気の秘密だったのである。その独特のシンプルなストーリーテリングは、ある種の映画のドラマツルギーのもっとも成熟した形であった事は間違いない……

  • 第45回『小さな赤いビー玉』(2000/7)

    ……子供というのは大人とは根本的に違う世界を持っていて、両者は相互に影響を与えあいながら並立している。その事実を何の衒いもなく、極めて繊細かつ冷静な視線で、キャメラがシンプルに見つめ続けていくのである。……

  • 第44回『どら平太』(2000/6)

    ……市川崑という人は本来娯楽に徹する人なのである。何といっても『犬神家の一族』を撮ってしまう監督なのだ。……

  • 第43回『スペース・トラベラーズ』(2000/5)

    ……テレビの人がここまで過剰にテレビ的要素を見せつける、という事態は恐らくかつてなかったことで、これは逆説的には、インターネットやゲームなどという新興メディアが、ブラウン管におけるテレビ支配の絶対性を揺るがしている現状を証明することにはならないか……

  • 第42回『ブエナ・ビスタ・ソシアルクラブ』(2000/4)

    ……彼らの演奏シーンに観客はただ圧倒され続けるだけなのである。その音楽を聴くだけで彼らのすべてが表現され尽くされている、というこれはヴェンダースの確信である。……

  • 第41回『雨あがる』(2000/3)

    ……ある作品につく映画スタッフのことを称するのに、作品名ではなく監督の名前で「〜組」というのは、現在でも残っている日本独特の伝統であるが、『雨あがる』の素晴らしさは、一言で言えば、まさにこの「組」の力なのである。……

  • 第40回『トゥルー・クライム』(2000/2)

    ……イーストウッドはもはや単に正義に生きるヒーローではなく、正義に生きていくしかない男の皮肉まじりの人生の物語なのである……

  • 第39回『ハリウッド伝説 ハワード・ホークス映画祭』(2000/1)

    ……それらはホークス自身の人生観が如実に反映しているに違いないのだが、自立した人間の姿、人間という存在の気高い一面が称えられることになるのである……

  • 第38回『どこまでもいこう』(99/12)

    ……この10歳という年齢に差し掛かる年代は、少しずつ「自分」が目覚め始める時期であり、子供を描く上で最もナイーブな時期でもある。……これらはみな、「自分」と「他者」という意識の芽生えであり、様々な悲喜劇の始まりなのである。……

  • 第37回『青葉のころ・よいお年を2』(99/11)

    ……「実の親子でもなかったくらいの人間的なぶつかり合いを、今の若い人たちが欲しているのではないか」と映画はさらりと言ってのけるのだが、それは映画に描かれていることが雄弁に物語っている。……

  • 第36回『知ったこっちゃない』(99/10)

    ……多民族国家であり移民の国であるアメリカでは、自分のルーツ探しというテーマ自体は比較的よく見られるものの、この映画が他と一線を画するのは主人公=父親の圧倒的な存在感である。……どうにも手のつけられない頑固親父なのだ。……

  • 第35回『ホーホケキョ・となりの山田くん』(99/9)

    ……単純に笑えてしまうのである。実際劇場での反応が、極めて好意的なのだ。一言でいえばかつての「寅さん」を映画館で見るときの、あの独特の親近感・一体感に近い。紛れもなく定番で王道のホームコメディ映画なのである。……

  • 第34回『マイ・ネーム・イズ・ジョー』(99/8)

    ……ジョーを演じるピーター・ミュランはじめ、登場人物は全て演技というものを越え、生々しい生活を生きているとしかいえない素晴らしさだ……

  • 第33回『洗濯機は俺にまかせろ』(99/7)

    ……中途半端な状態を、二人とも自然体で演じられるのがいい。そして二人はそれぞれの夢を抱き続けながら心を交わしていくのが、折り目正しくきっちり描かれていくのである……

  • 第32回『ムトゥ・踊るマハラジャ』(99/6)

    ……これは紛れもないスター映画である。そして娯楽映画の王道を追求した結果が、これなのである……これが娯楽映画の一つの極地点であるのは間違いない……

  • 第31回『永遠と一日』(99/5)

    ……この詩人の役どころは相当難しい。死期を悟っているだけでなく、自分のライフワークとも言える詩の研究も行き詰まりを見せたまま、かつて熱烈に愛し合っていた妻とも別れ、母親とは悲劇的に死別する。このように全てに閉塞した状況を迎えるとき、人はどのような表情を見せるものなのか?……

  • 第30回『グロリア』(99/4)

    ……母子ほども年の離れた二人が「人間として」いかに分かりあえるか、人は相手のことをどこまで理解しうるのか、という点が物語の中心になっていく……

  • 第29回『のど自慢』(99/3)

    ……題材からしても国民映画と呼んでおかしくないのだが、このような「みんなで楽しめる映画」というのは、実は今の日本映画で一番欠けているジャンルなのである。……

  • 第28回『まひるのほし』(99/2)

    ……被写体となったアーティストたちの醸し出す、何ともユーモラスな言動には思わず笑いを誘われるのである。前作で阿賀野川の老人たちをとらえたときの視線と同じ、この気負いのなさこそ、佐藤真映画の神髄であり……

  • 第27回『恋の秋』(99/1)

    ……相手の気持ちをはかりながら先回りして行動しても、少しずつ失敗や勘違いを引き起こしてしまい、事態はいつしかとんでもない方向へ進んでいってしまうのだ。これはコメディの中でも最も洗練された種類のもので、人間心理のある微妙な側面を実に巧みに引き出している可笑しさといえよう……

  • 第26回『あ、春』(98/12)

    ……淀川長治が亡くなった。……あの独特の語り節は、心に残る映画のワンシーンを忠実に興味深く人に伝えるという点においては、最強の技であった……

  • 第25回『がんばっていきまっしょい』(98/11)

    ……この映画が非常に成功していると思うのは、とにかくただひたすらボートの練習をやっているのである。……雑談や日常のしぐさに表れるちょっとした変化を大切に見せることで、ボートが日常、日常がボートという役柄と実際を重ね合わせていく。それが、このかけがえのない成長の物語をリアルに作り上げているのだ。……

  • 第24回『時雨の記』(98/10)

    ……この映画での心の幸せとは、ひたすらプラトニックな恋愛を貫き通すことで成就されるのだが、……もはや殆ど死語になった「プラトニックラブ」を映画にすることは非常に困難なことなのである。……

  • 第23回『ナージャの村』(98/9)

    ……事故自体は全く不幸な出来事なのだが、そのことによって逆に、自然とともに生きることの価値が突然「再発見」されたのである。……82歳のお婆さんが「草木も人も、生まれたところで育つのが一番いい」とつぶやくのだが、その言葉が伝える重みは本当に貴重だ。……

  • 第22回『ダロウェイ夫人』(98/8)

    ……ここに、人生は後戻りできない、という事実を直視せねばならない。失敗や間違いなど、後悔の種は尽きないが、しかしそれ以上に重要なのは、でも自分は今生きている、という大らかな肯定だ……

  • 第21回『ジンジャーとフレッド』(98/7)

    ……そうして30年の間にずれてしまった人生も、やがて二人が踊ったピアノ曲を聴き、舞台衣装を身に着けると、昔のプロの芸人らしいキリリとした様に変わっていく。若い頃のフェリーニはサーカスや芸人を題材によく映画を撮っていたが、この「芸人根性」の描き方たるや、見事に的を射て、本当にうまい……

  • 第20回『非情の時』(98/6)

    ……これをロージーは、単なる犯人探しの推理ものにすることなく、親子・恋人・家族を軸にした人間関係の深い葛藤のドラマに仕立て上げてしまっている。明日に処刑を迎えた息子は、父親のアル中を決して許さず、父親のせいで自分の人生が大きく狂ったと、深く諦念している。その様子に驚かされた父親は、初めて自分の生き方を振り返るのだ。……

  • 第19回『ボッカチオ'70』(98/5)

    ……どれもたわいもない話であるが、いつの時代にも共通の男女の恋愛と性の問題を、いかにもイタリア的にあっけらかんと表現し、しかも4人の監督がおのおのの持ち味を十分に発揮して観客を魅了する。……

  • 第18回『世界の始まりへの旅』(98/4)

    ……ここでクローズアップされるのは血と絆のテーマである。血で結ばれた関係、この縁(えにし)の強さを、オリヴェイラは単に家族の絆の物語としてではなく、サラエボなどで起きている民族戦争の惨たらしさまで視野に入れながら、なおかつその力強さを認め、……

  • 第17回『桜桃の味』(98/3)

    ……自殺を決意した男は全てに諦念しきったような無表情を崩さないし、若い兵士は男の自殺への考えを明かされていくにつれ、みるみる不安と恐れが顔に広がっていく。その様子は見事なまでにスリルに満ち、観客は何かサスペンス映画でも見ているかのような緊張を覚えるのである……

  • 第16回『世界中がアイ・ラヴ・ユー』(98/2)

    ……そんな彼が忠実に正統派のミュージカルを生み出してしまう状況はある意味興味深いところだ。懐古趣味的な映画へのオマージュを越えて、彼自身の映画への確信を感じさせるのである……この映画はスタイリッシュというよりむしろ「枯れた」境地に向かっている。……

  • 第15回『男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花(特別篇)』(98/1)

    ……監督の演出術や出演者の演技術、それらが渾然一体となって形作られる淀みない作品づくりは、伝統的な映画における技の集大成であり、その最良の部分を我々は寅さんから観ることが出来る。この技は、もちろん渥美清という俳優を抜きには語れない。……

  • 第14回『につつまれて/かたつもり』(97/12)

    ……幼い頃に父親がいなくなった彼女自身の体験。おばあさんにかわいがられ、生活に不自由はしなくとも、やはり何か心に欠けているものを映画を通じて探ろうとする試みが、この作品なのだ。……

  • 第13回『GOING WEST 西へ……』(97/11)

    ……日本映画を取り巻く状況が好転しつつある一方、逆に非常に成立しがたいジャンルの映画も出てきている。それは何か。……

  • 第12回『リボルバー』(97/10)

    ……この映画に登場する人々は皆世の中に素直に収まらない、どこかはみ出し者と呼びたくなるような生き方の曖昧な輪郭を持っていて、そのつかみどころのない並列に進んでいる複数の生活が拳銃を中心に一つに収斂されていく様が見事だ。……

  • 第11回『座頭市物語』(97/9)

    ……雷蔵と勝新は同時期に同じ大映で活躍したスターということでよく比較されるが、……勝新はどことなくユーモラスで金にあくどいこともあるが根っ子は正義感であるという役どころが多い。それに「勧善懲悪」などと美辞麗句に惑わされず、自分のことを常に考えて行動する様子が素晴らしいのである。……

  • 第10回『冬冬(トントン)の夏休み』(97/8)

    ……侯孝賢は常に撮影現場の「気」を重視すると言われているが、……瞬間の緊張が見事に生々しくスクリーンに定着しているのが素晴らしい。牧歌的空間は常に張り詰めた緊張を孕んでいるのである。……

  • 第9回『うなぎ』(97/7)

    ……今村昌平は一貫して、人間の「悪意」とも呼べるダークな部分を映画のテーマとして好んで取り上げてきている。……実はこの構造こそ全く伝統的な日本映画のものではあるが、それにしっかりと根差した演出と演技、その総合が緊密に完成されている。……

  • 第8回『全身小説家』(97/6)

    ……彼の小説への執念はフィクションの力を信じることから始まっている。映画の中で彼の経歴や親子関係など、逸話の多くが空想の産物……虚構だと判明するが、それは詐欺とかインチキなどの類ではない。虚構こそが人を喜ばせ、ひいては自身を輝かせていく、その真理を彼は人生を賭して体現したという事なのだ……

  • 第7回『マディソン群の橋』(97/5)

    ……そう、この映画の鍵は、まさしく「原作に忠実」な点にある。……
    そんな原作を前にしてイーストウッドは、人物を不用意に美化したりせず、原作に忠実にその生活感・人物のキャラクターを徹底してリアルに見つめなおしていく。……

  • 第6回『ノーバディーズ・フール』(97/4)

    ……そして何よりポール・ニューマンが、「年齢相応の達観」とか「人生の重み」などからはほど遠い、 人間くさい普通の老人を等身大で演じるのが素晴らしい。……
    程々の猥雑さすら含みながらもあくまで人間的な感覚に密着したところで作品を構築していく、このような映画こそ叙情的と呼ばれるにふさわしい。……

  • 第5回『冬の猿』(97/3)

    ……J・ギャバンは50年代半ば以降は若手の活躍を見守るような老人の役が多くなり、映画の中だけでなく実生活でも若手俳優と深いつき合いを持つようになる。……「俳優はただの一芸人」との姿勢を死ぬまで貫き通したJ・ギャバンだけに、自分が築いてきた映画界での位置、すなわちスクリーン上の空間を継ぐべき、新しい世代に花を持たせようとしたのかもしれない。……

  • 第4回『フレンチ・カンカン』(97/2)

    ……ルノワールはあるインタビューで「J・ギャバン、彼は映画そのものだ」と語っているが、なるほど彼の演技を見ていると、むっくりとした堂々たる体格と常に一文字に結ばれた口がスクリーンにピタリと収まっていて、その大きな体が若いF・アルヌールといとも軽やかにダンスを舞ったりするとそれだけで画面が生き生きと躍動するのである。……

  • 第3回『ジャン・ルノワール、映画のすべて。』(97/1)

    ……ジャン・ルノワール映画の魅力は、人間の自由さ大らかさを、途方もなく殆ど極限まで肯定しているところにある。それも「人と人との連帯」「人間讃歌」などとあっさり言ってしまうのが思わずためらわれるほどなのだ。……ルノワールにかかってしまえば、どんな俳優でも役どころを遥かに上回る存在感を十二分に発揮する。……

  • 第2回『おてんとうさまがほしい』(96/12)

    ……映画の成り立ちからして、この作品は極めてプライベートなもののように見える。だがこれが単なるホームビデオを越えて感動的なのは、例えば、若い頃のトミ子さんの写真と今の姿が対比される瞬間である。かつてモダンな美人だったトミ子さんと、今は車椅子に乗っているトミ子さん。この対比の中に、撮影した生さんのプロの映画人らしい冷静な眼差しが出現すると同時に、人間誰にも避けがたい「老い」の問題が鋭く立ち上がる。……

  • 第1回『阿賀に生きる』(96/11)

    ……『阿賀に生きる』は重いテーマを背景にしながらも「こんなに心から晴れ晴れと笑えて楽しめる映画も近頃珍しい……」との映画評もあるように、人々の生活が実に軽妙な面白さを醸し出している快作である。……


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